名前は一種の記号だ。 どんな意味が込められていようが、その人間を識別するための記号でしかない。 だけど、どうしてだろう。 ときおり、それがひどく温かいと思ったんだ。


さあさあ、と灰色の町に雨が降る。そこらの瓦礫とともに自身の体が雨に濡れる。黒い髪を伝って頬に水が流れていく。水を吸った衣服が重くて邪魔だ。――否、服が吸っているのは水だけではない。

(寒い、なぁ)

雨が次第に強くなる。遠くが霞み、水が地面を打つその音がうるさく感じた。 どこか、雨を避けられる場所に逃げるべきなのだろう。だけど体は動かない、……動かせない。ただ、視界の端で水に流されていく赤を、ぼんやりと認識するくらいしかできない。

(ああ、本当、しくじった)

血が抜けてまとまらなくなってきた思考で、ここしばらくの自身の行動を振り返る。お世辞にもまともとは言えない生活だった。食事の量も睡眠時間も、ヒトが生きるための量としては不足している。今日の体調がいつもより悪かったのはそのせいだな、と考えることを放棄し始めた頭で結論付ける。

(ヒトは面倒だな……)

少しバランスが崩れただけで、ここまで体に影響するなんて。 丈夫とはいえ、今回はさすがにまずいかもしれない。そんなことを考え始めたときだった。

「おい、しっかりしな!」

女性の声が聞こえた。閉じかけていた重い瞼を持ち上げると、金色の瞳と目が合った。

「……だ、れ……」

掠れた声が喉からこぼれる。あまりにひどい自身の声に自嘲の笑みが浮かぶ。少し視線を下げれば、先ほどよりも広がった赤が見えた。なるほど、相当重い傷を負っていたらしい。

「私は――ってそれどころじゃないだろ! ほら、立てるかい?」 「……あー……だい、じょうぶ……」

女性に支えられながら立ちあがる。実際には、自分の足が言うことを聞かず、女性に引きずられるような形だったが。

「大丈夫には見えないねぇ。本当は病院に連れていくのがいいんだろうけど、ここらにはそんな高尚な施設は無くってさ。少し我慢しな」

病院なんて、はなから期待していないさ。そう応えられたのか分からないが、女性の長い金色の髪が、雨の中で揺れていたことと、そこで意識が途切れたことは、妙にはっきり覚えていた。


「少しは落ち着いたかい?」

次に目を覚ましたときには見知らぬ屋内だった。シンプルで全体的に木製の家具が目につき、少し視線を巡らせればバーカウンターのようなものが目に付いた。天井からつるされたランタンの炎がゆらゆら揺れている。 口を開こうとして、水気を失った喉が引きつってむせた。金色の髪が目に映った、と思えば先ほど自分を支えていた女性が、水の入ったグラスを差し出していた。 それを受け取り、一気に煽る。口の端から少し水がこぼれて冷たく感じたが、その時は気にする余裕がなかった。